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  皇国史観を解体する北方謙三

『破軍の星』by北方謙三

 北畠顕家が歴史上に登場したのは一瞬だった。南北朝時代、1335〜6年に足利尊氏が京都に攻め入り、後醍醐天皇の朝廷方と戦い、勝利をほぼ手中にする。しかし、北畠顕家は、陸奥から兵を率いて尊氏の背後を突き、尊氏を九州まで敗走させる。彼の事績としては、この鮮やかな勝利に記憶をとどめるくらいなのだ。父の北畠親房が皇国史観の源として第二次大戦中の日本にまで深く影響を与えたのに比べ、21年の生涯の短さもあって、あまり語られることも少ない。ちなみに大河ドラマ『太平記』では、後藤久美子が演じていたらしいのだけど、短い生涯と一瞬の栄光のおかげで、それだけフィクションを加える余地があるということだろう。

 著者の北方謙三は、北畠顕家の生涯を描くに当たって、様々な補助線を引く。安家(あつか)という山で生活する一族で、実は奥州藤原氏の末裔であるという設定を作り、これが物語に奥行きを与えている。

 物語は親房・顕家父子が朝廷の命を受けて陸奥へ赴く途中から始まる。やがて北条の残党による叛乱を平定していく過程で、安家一族に出会う。安家一族は、奥州藤原氏の復興を願い、顕家の器量と才気に陸奥を独立国にしようという夢を見る。その夢と朝廷の臣下であるという現実の間に迷い、悩み、後醍醐天皇の取り巻きたちの腐敗への怒りを抱えつつも、朝廷の窮地を救うべく、京を目指す。その行軍の描写が、この小説のハイライトになっている。敵である足利尊氏・直義兄弟や斯波家長の人物像も丁寧に描かれ、「敵=悪役」でないところが魅力的だし、男と男がぶつあり合うハードボイルド小説として読めるのだ。

 地方に派遣された南朝方が、地元の有力者と出会い、独立国を作る夢を見るが破れるという話は、懐良親王を描いた前作『武王の門』と同じなのだけども、ここに著者の歴史観がよく現れている。つまり、皇国史観によらない南北朝時代を描きたいというのと、日本という国の枠にこだわらずに活動していた人々がいた時代(倭冦とか、山の民とか。奥州藤原氏は沿海州や北宋と独自に交易していたらしい)であるのを描きたいということなんだろう。戦前は足利尊氏を擁護した国務大臣が職を追われたこともあり、この小説のように南朝を描くことはできなかった。北畠親房に批判的な箇所が散見され、登場人物に「斬れ」とまで言わせてるくらいなのである。ということは、この小説は戦後民主主義下に於いて初めて可能になった文学的達成と言えるだろう。

 もちろん、北畠顕家が、本書の中にあるような国家観を持っていたのか分からない。そもそも「国家」という概念が近代以降に成立したものだから、「国家とは何であるか」という問い自体が、その時代に有り得たかと言えば微妙だろう。だけども、さほど気にならずに楽しめる。

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2005-06-05 23:50:21

塩野七生は、何故偉いのか

■『コンスタンティノープルの陥落』塩野七生 (新潮文庫)

 1453年に滅ぼされたビザンティン帝国(=東ローマ帝国、ビザンツ帝国)とオスマン・トルコとのコンスタンティノープル(現イスタンブール)における最後の攻防を描く。かつて地中海を支配したビザンティン帝国もコンスタンティノープルやペロポネソス半島などを残すのみとなるが、海と堅固な城壁に囲まれたコンスタンティノープルは10倍以上の敵に囲まれても、なかなか落ちない。

 この2ヶ月に渡る包囲戦を、救援に赴いたヴェネッツア軍の医師や帝国の重臣や市民やジェノヴァの商人、そして攻める側のトルコのスルタンやその側近など、さまざまな視点から、なぜビザンティン帝国は滅んだのかを浮かび上がらせる。この小説は、まず初めに歴史的背景を説明し、最後が後日談の章になっていて、それに挟まれた8つの章が、さまざまな思惑や信念を持ちながら人々が動き、臨場感ある物語を作っていく。窮状を救うべく、ローマ法王に東西の教会の合同を呼びかけるビザンティンの重臣がいるかと思えば、ローマ法王を組むのならトルコの配下になった方がマシと考える者もいたり、ビザンティンを助けるヴェネッツア、表向きは中立を守るジェノヴァ、そして、コンスタンティノープルを落とすために計略を巡らすスルタン・マホメッド2世、その尖兵にさせられるキリスト教徒のセルビアの指揮官など当時の政治、軍事、文化、生活まで細かい描写から立ち上がっていく様子に引き込まれていく。自分は約10年前にイスタンブールに行ったことがあるけど、ガラタ塔とか聖ソフィア大聖堂とか懐かしい情景が浮かんできて楽しく読めた。

 さて、女性で西洋史に通じ、豊富な資料を基にディテールまでがっちり書く作家に最近では佐藤亜紀がいる。好んで取り上げる題材が塩野七生は古代〜近世のイタリア・地中海、佐藤亜紀は近代のウィーンという違いがあるけど、外交史や軍事史まで押さえて、保守論壇にも顔を出し、小説の中に同性愛とか美少年・美青年が出てくるところなんかの資質が似ていると言えば似ている。だけども、塩野七生が大企業の役員クラスのオジさんに好まれ、それなりにメジャーであるのに対し、佐藤亜紀が今ひとつブレイク出来ないというのは、キャリアの差以上に、視点の違いだろう。この『コンスタンティノープルの陥落』は、さまざまな人物に焦点を当てて語るのだけど、結果的にビザンティン帝国の滅亡という事象を俯瞰している。映画で言えば、複数のカメラを使って映像のスペクタクルを体験させるのだ。一方、佐藤亜紀の小説――例えば、ナポレオン暗殺の陰謀を描いた『1809』でさえ、映画に例えれば、ひとつのカメラを使って――徹底的に単一の視点で、物語の奥まで突き進んでいくのである(それでいてバックグランドの豊穣さを感じさせるのだから凄い)。俯瞰――つまり神の視点、というのが大げさにすぎるなら、指導者の視点から語るという結果、塩野七生の小説からは、何らかの教訓を引き出せてしまう。「ビザンティン帝国のように、団結せず、合理的な思考をせず、迷信深く、自国を守る気概のない国は亡ぶのだ」と、ウンチクと共に語ることが出来る、いかにもビジネス書だけじゃ物足りない上場企業役員クラスのオジさんが好みそうなお話にもなっているわけだ。ところが、佐藤亜紀の小説からビジネスにヒントになるような教訓も引き出せないのだ。あるのは読書の快楽だけである。というわけで、最終的な自分の好み、それから小説家としての力量的には佐藤亜紀に軍配を上げるんだけど、その代わりに敷居は高いし、オジさんは絶対に手に取らないんだろな。もちろん西洋歴史オタクの資質を大企業のビジネスマンにも通用する商品に仕立てた塩野七生は偉いのだ。

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2005-03-18 00:25:18

『あの頃ペニー・レインと』&前回の書き込みの返事

 厳格な家庭に育った少年がロックに目覚めて、わずか15歳で人気バンドのツアーに同行して取材する。その最中に起きたさまざまなエピソードを通じて、少年は成長するという話である。

 バンドのツアーを描いた劇映画で自分は『スティル・クレイジー』を観たことがあるけれども、バスに揺られて街から街へ旅するロックバンドにまつわる事件はネタの宝庫であるのだろう。とは言え、例えばレディオヘッドのツアーが女と酒とドラッグにまみれているとは思えないし、ニルヴァーナのツアーを描いたら暗い話にしかなりそうもないんで、笑いあり、涙ありのツアー話は70年代(その残滓を引きずっている)バンドにしか出来ないだろう。そりゃ、今でも女まみれ、酒まみれのツアーをしているバンドはいるだろうけど、モトリー・クルー(最近再結成した)とかに主人公のような少年が興味持つとも思えず、ワイルドさとインテリジェンスと商業性がバランスとれていた70年代は奇跡だったのかも知れない。

 バンドはスティールウォーターという架空のものだけど、どうやらオールマン・ブラザース・バンドがモデルになっているとのこと。あんまり演奏シーンはないけど、音楽的にはアメリカのバンドらしい骨太な音を出す。

 早熟の学校秀才ぽい少年が、バンドやグルーピー(なのに「私たちはグルーピーじゃない」と言うところに10代特有の自意識を感じさせる)との交流で、主人公も主人公の母親も、さまざまな世界を知るというのが話の中心であり、その開けていく感覚というのが、その時代のその場所にはあったということなのだ。

 自分が惹かれたのは、そのようなしっかりとしたストーリーがあるということもそうなんだが、最初は主人公はパスが貰えず楽屋に入るのに苦労するとか、インタビューになかなか応じてくれないとか、そういう細かなところが自分にも似たような経験があり、主人公の心境に重ね合わせることができるのだった。音楽を聴き、その音を出している人を知りたいという衝動が主人公をつき動かしている、そのシンプルな欲求って、やっぱりいいなぁと思う。この文章は前々回の書き込みに対してのいろんな反応に対してのアンサーであるわけで、どの道、書き続けるのだろうけど、それは知識とか、文章の上手さとかが、もちろん大事なのは承知の上で、伝えたいことがあるから書くのである。

 この映画だって、厳格とは言え、母親は根はリベラルだから何だかんだで理解を示すし、中産階級だから趣味を維持するお金はあるし、主人公は『ローリングストーン』誌の経費をツアーで使いまくるし、恵まれていると言えば十分に恵まれた環境にある。そういうものを持たない自分なんかは、スタート地点に立てるのかと自らを問い質したくなるが、主人公のように、とにかく走るバスに乗ってみるというのが答えなのかも知れない。

 追伸:SOULさん、前回の書き込みにご返事ありがとうございます。こちらも言葉がきつかったことを謝ります。これはプライベートでも指摘されたことですが、「公」と「私」の意識の違いがあったということです。smashing magはあくまでも、いち音楽ファンの投稿によって成り立っているサイトであり、何度か投稿し編集長が認めた人にSMASHのライヴに対してレポート目的で入場できるようになるというものでありますが、現在ではsmashing magとしてSMASH以外のライヴもレポート出来るようになり、アクセス数も考えれば、確かにSOULさんの言うように「smashing mag=公式な音楽サイト」と思われる人もいても不思議ではないということでしょう。確かにその辺りの認識が甘かったです。ただし、あくまでも音楽好きの私的なレビューの集まりです。SOULさんの返答も励ましと受けとめ精進していきます。

 ただ、もうひとつの問題、文章を書くうえで、どこまでの知識が必要かとことに関してですが、例えば、JUDEやROSSOのライヴを観て、その素晴らしさを表現するときに前身のバンドに必ず触れなければならないのか。もちろん、ブランキー・ジェット・シティやミッシェルガン・エレファントのファンから見れば、当時と過去との比較を読んでみたいという気持ちはありますが、では、それがジョイ・デヴィジョンとニューオーダー、フリッパーズ・ギターとコーネリアスだったらどうでしょう?知識は必要だし、沖縄のフェスに関しては、かなりの反省点があったのは事実です。ただ、こういうこともあります。以前、ピールアウトのシングルのレビューがロッキンオンに載ったとき、それを書いた松村雄策さんが"SAD SONG"をルースターズのカヴァーであることを指摘しなかったことに対し「松村雄策は"SAD SONG"を素晴らしいと書いているが、この曲がルースターズのカヴァーであることを知らないのか」と自分の周りで話題になっていました。ところが、ずっと後になって松村さんに話を聞くと、ルースターズが東京で初めてライヴをしたときから観ていたとのこと。もちろん、ルースターズのファンからすれば"SAD SONG"の原曲がルースターズのものであることを指摘して欲しいわけなんですが、それとピールアウトが演奏する"SAD SONG"の素晴らしさを表現する文章に必要なものなのか、もちろん「必要だ」という価値観があるのは承知の上で、そこを問うてみたいと思ったのが、前々回の書き込みの主題であります。

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2005-03-04 10:34:12

さまざまな反響

 前回の書き込みは、コメント欄のみならず、プライベートな方でもさまざまな反響があって、いろんな意見を頂いたうえに、2ちゃんねるにまでリンクが貼られていたので、関心を集める話であったのだと改めて思った。まずは、読んでくれた方々に感謝します。

 一応、整理しておくと、自分は文章を書いて生活しているわけではない、他に生きるための仕事があり、空いた時間にライヴを観に行ったり、文章を書いたりしている。ライヴに関して言えば、取材のときはゲストで入れたりするが、そうでないときはお金を払うし、CDもサンプル盤を貰うことがたまにあるけど、基本的には自腹を切って買っている。だからライヴは本当に行きたいもの、CDは本当に聴きたいものを厳選してお金を払う。この辺は普通のお客さんと同じである。

 かっちゃんバンド=コンディショングリーンに関しては、お客さんの反応、トリのシナロケの鮎川さんがMCでわざわざ名前を挙げたこと、何よりも演奏が凄かったうえにエンターテイメントだったことなどを見て、何か特別なものを嗅ぎ取って一歩も二歩も踏み込んで調べていけば良かったのだということが反省点。その一方で、例え、事前にかっちゃんバンドがコンディショングリーンであることをGoogleなどで知りえたとして、それがそのまま原稿に反映されたかといえば、どうか分からないと感じる。もともとコンディショングリーンを知らなかったわけだから、あたかも知っているように書いたら嘘になるわけだし。

 もちろん、好きであるなら対象を知ろうと思い、それが知識となるわけなんだけれども、限られた制約の中でいかに高めるか。ただ、出来れば知識を上回るような観察力、表現力を身につけたい、これがこれからの課題。

 今後も書き続けていくことで、答えていきたいと思う。コメント欄でレスを下さった、初めましてさん、ありがとうございます。励ましと受けとめます。それからSOULさん、率直に言うと、あなたは文章を理解する能力に欠けてます。この件はどこにも「誤った情報発信」についてのことなんてありませんよ。沖縄のフェスで「かっちゃんバンドがコンディション・グリーンであったことを触れなかったこと」について、ある人からメールを頂いたことに端を発しているわけです。もし、自分が事実誤認で他の人に迷惑をかけたなら率直に謝るだけですが、この件に関しては誰も迷惑はかかってません。この件に関しては事実誤認は存在してないのだから。だからこそ、自分が音楽に関して文章にすることについて、いろいろと深く考えさせられた、ということを前回の書き込みで書いているわけです。単なる誤りでこんなに悩んだりしません。それから「公式な音楽サイト」これも認識が間違っています。smashing magは基本的にプロモーターであるSMASHのサポートを受けてSMASHが企画制作するライヴに関して優先的にレポートをしますが、これらのレポートはSMASHの公式見解ではありませんし、内容に関してSMASHから制限を受けることはありません(ダメだったライヴを無理矢理誉めることはない)。さらに言えば、沖縄のフェスに関しては、SMASHとは何の関係もないものであって、これは、おれが個人的なつながりで私的に取材を行ったものであり、誰からも制約を受けずに自由に書いたことですし、公式レポートでも何でもありません。SOULさんのような他人を叩くことのみを目的とした書き込みに対して謝る必要もないですし、やはり、自分は書き続けることが誠実な批判に対しての誠実な答えだと感じています。

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2005-03-04 00:38:57

音楽を書くにあたっての必要な知識

 ちょっと古い話になるのだが、自分が書いた『22nd Peaceful Love Rock Festival』日本で一番早い夏フェスと題して書いたレポートにある人から、magの管理人にメールが来た。

>特に気になったのは『22nd Peaceful Love Rock Festival』日本で一番早い夏フェス
>:review by nob氏:における【かっちゃんバンド】の記述です。
>若いライターなのか主観的なのは仕方ないかと思いますが、【かっちゃんバンド】は
>あのコンディショングリーンです。
>貴HPは音楽に詳しいコメントが多いので、筆者の勉強不足には少々残念に思いま
>す。今の時代ネットの影響力は大きく、その分配信する側においても責任があると思
>います。
>
>これからも期待しておりますので良い情報と刺激をお願いします!


 それが自分のところにも転送されてきたのだった。まず、初めに思ったのは、自分の文章を読んでくれている人がいて嬉しいということで、これはホントに正直な気持ちである。しかも、このように沖縄ロックに詳しい人もチェックしてくれていることにありがたいと思う。何てたって、自分の書いた文章はたまに2ちゃんねるにコピペされたり、リンクを張られたりするけれども、直で感想や指摘をしてくれる人はなかなか居ないのだ。あんまり反応がないと、読んでくれている人はいるのだろうかと不安になってくるのだから。それからネットで文章を書くという行為は実は怖い、もちろん何のメディアでも不特定多数の人を相手にするのは、さまざまな人の批判に触れられることを覚悟しないといけないと緊張感を強いられることなんだということに改めて気付かされた。

 ただ、その一方で「音楽について文章を書く人はどこまで知っていないといけないか」ということについて考えされられたのである。実は「あのコンディショングリーンです」と書かれても、そのコンディショングリーンを自分は知らなかったわけで、それを勉強不足といえば手を上げるしかない。もちろん「コンディショングリーンを知っていて当然」という価値観もあるだろうし、知らないで今までネットで文章を書いていた自分のような人もいる。自分はもとより、沖縄のロックに関して紫の名前を知っている程度であった。何てたって、沖縄のフェスに行くまではディアマンティス(周りから有名じゃないかと言われた)さえ知らなかったくらいの無知さ加減なのである。もちろん、Googleで調べればある程度出てきて、コンディショングリーンがどんなバンドか知ることは出来る。書く前に調べておくべきであったのは確かだろう。

 もちろん音楽についての文章を書く際に、必ずしも知識はいるわけではないという意見もあるだろう。知識不足をカヴァーするだけの感動とその表現力があればいいのだと。もちろん、それはそれで正しいのだけど、やはり最低限の知識というのは必要であろう。自分だって教養としてビートルズの代表曲くらいは知ってて当然だと思う。じゃあピストルズは?プレスリーは?ストーンズは?ツェッペリンは?ニルヴァーナは?・・・しかし、それがどこまでが最低限なのだろうか。

 てなことを考えていくと音楽の文章を書く人って幼少の頃から幅広く音楽を聴き込んでないといけない、洋楽邦楽新旧メジャー/インディーズを聴き倒さないと、つまりは時間とお金を豊富に使えるブルジョアでない人はやめた方がいいんじゃないかくらい思いつめてしまった。自分だって、それなりに恵まれてはいるんだろうけど、ブルジョアな若いマニアの知識におれは絶対的に負けてると思う。そもそも今の自分なんて月に2〜3枚しかCD買ってないし。おかげさまでライヴはいろいろ行けるようになっているが。音楽について書くのは本当に難しい。(2月9日タイトル変更。一部修正)

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2005-02-09 01:08:26

『ちゅらさん』中毒

 『スーパーサイズ・ミー』はマクドナルドのものを1か月間喰い続けるというドキュメンタリーだったけど、この1月は国仲涼子強化月間だったため、レンタルで『ちゅらさん』『ちゅらさん2』のDVDを借りてずっと見続けていた。休みの日なんか丸1日『ちゅらさん』を観ていたのだった。ひとつ観終わるとまたすぐに次が観たくなる。まさに『ちゅらさん』中毒だ。まるで『スーパーサイズ・ミー』である。長期低迷が続くここ最近の朝ドラの中では珍しく人気シリーズで続編、続々編が作られているし、こうしてDVD完全版が出てレンタル店に並んでいる(それを言えば『天花』だって完全版が出ているけど、誰が観るんだろう?レンタル店にも並んでないし)。このドラマは基本的に国仲涼子の笑顔を鑑賞するものなんだけど、もちろんそれだけでない魅力が詰まっている。舞台は沖縄と東京で、沖縄は基地問題とか高い失業率とかが無い沖縄であるし、東京は雑司が谷のアパートでのありえないほど愉快な共同生活で、まぁ要するにファンタジーなのだ。でも、そのファンタジーがとても魅力的な世界を形作っているのは確かで、国仲涼子とその共演者たちがそれを支えているのだ。

 まずは堺正章が演じる主人公の父のダメ人間ぶりが素晴らしい。故郷・小浜島(沖縄本島からさらに離れた小島)で民宿を営むも上手く行かず沖縄本島に移って一応タクシー運転手になるがロクに仕事もせず昼から酒を飲み三線を弾く毎日である。このダメっぷりがスローライフ的というか。去年の夏に沖縄に行ったときにスーパーで泡盛の一升瓶が安く買えて飲めるところでは、人間あんなふうになってしまうのも仕方ないなぁと。その長男はガレッジセールのゴリが演じて、これが寅さん的な感じ。

 そして、今や売れっ子になってる山田孝之演じる主人公の弟がロックに目覚めるきっかけになった曲がスペッテンウルフの"born to be Wild"。「ロックをやる」と宣言した後、それを受けて堺正章が「おれは小浜のジミヘンと呼ばれた」と三線で"Purple Haze"を弾く。そして、ロックの勉強を始めて読む本が『ロック大研究』という本なのだが、静止画像にして著者のところを拡大してみると、○○○一とある。もっと解像度の高いテレビで見れば分かると思うけど、元ネタは推測するに渋谷陽一の『ロック大教典』だろうか?で、そんな本はいらないと投げ捨て、ギターを教えるライヴハウスの店長がシーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠なんである。しかも教える曲がキンクスの"You Really Got Me"だ。鮎川のギターでこのリフを聴くと、シーナのこの世のものとは思えないダミ声で「ぼおぉいぃ〜ゆりりがみなう〜」と歌ってるのを思い出す。そんでもって鮎川さん、ものすごい棒読み。まあ、普段のライヴのMCでも棒読みなんで、今に始まった話ではないんだが、達者な人が多いこのドラマで完全に浮いてるっていうか、強烈な異物感を放っている。それがものすごくロックンロールである。もちろん、おばぁを演じた平良とみを全国区にした功績も忘れてはいけないだろうし、菅野美穂の強烈な毒舌キャラも重要だし、ホント出てくる人がみんな良い。

 ネットでいろいろと見て回ると「前半は良かったが、後半はグダグダ」とか「ラスト1ヶ月はダメだった」とか言われているけど、言われているほど、グダグダにも感じず、最後までちゃんと観れた。『こころ』や『天花』のダメさ加減と比べれば全然マシじゃないですか。ただ、やっぱり爆発的な面白さは、国仲涼子の奇跡的な可愛さも合わせて序盤で、1シーンも見逃さないテンションで興味持って観れたのは中盤過ぎまでかな。ただし、主人公が看護婦になり、舞台が病院になると途端に『ナースのお仕事』的なユルさが付きまとう。婦長、先輩、同僚、旦那が医者の組み合わせで、ドジな主人公がやらかす失敗を巡るコミカルな味付けとか。松下由樹の声で「あさくら〜」と怒る声が聞こえてきそう。

 注文をつけるとすれば、主人公が幼いときに結婚の約束をしていた文也(小橋賢児)と再会してから結婚するまでが早すぎ。ここのところはあともう二週間くらい使って丁寧に描いた方がよかったのでは。特に主人公・国仲とライバル遙(小西真奈美)とのバトルはもっとやった方が面白かったのに。主人公の息子、和也の心の病気ネタはまるまるなくても良かったんじゃないか。だってあんなアパートでいろんな人と暮らしているのに、あんな程度のことがトラウマにはならんでしょ。そこを削って、もっと再会した文也が主人公にとってやっぱり魅力的な人で、惹かれているんだけどライバルがいるというあたりを丁寧にやって欲しかったかなと。「結婚してから恋愛しよう」っていうのはどうなんでしょう。まあ、ファンタジーだからいいのかも知れないけど。

 そして、このドラマのせいで「国仲涼子=えりぃ」というイメージがついてしまい、その払拭が出来てないのが現状である。国仲涼子の女優としての可能性を狭めたといういう点では、このドラマの罪なんだけど、じゃあ『ちゅらさん』をやってなければ、国仲涼子は「可愛いし、そこそこ上手いし(とても良い表情作る)、でも数字取れないし、バラエティ番組のトークが下手」という、ちょうど星野真理あたりのポジションに落ち着いてしまったのだと思う。その点では諸刃の剣であろう。でもこうして代表作があるのは役者的に良いことなのかも知れない。

 脚本の岡田恵和のテーマとしては、一風館で半共同生活で擬似家族を作り上げるというのは、後の『ホームドラマ!』(堂本光一、ユースケサンタマリアなど)で、そのテーマが強く出てくるし、主人公の夫・文也の母子家庭の様子や主人公とその弟の密着ぶりの関係性は『マザー&ラヴァー』(坂口憲ニ、松坂慶子など)に受けつがれる。朝ドラ的には、今やっている『わかば』に相当な影響を与えている。





緊急特別企画:勝手に朝ドラのストーリーを考えてみました


 そして、勢いでこんなことを考えてみました。こうなったら、おれがストーリーを作ろうと。そして低迷する朝ドラに喝を入れようと。

タイトルは「のぞみ」(仮)

NHK朝の連続テレビ小説8?作目は、なんと朝ドラそのものがテーマに!朝ドラのヒロインを目指す少女の努力・友情・勝利そして恋!

※登場人物の名前はちゅらさんの登場人物の名前を適当にアレンジして当てはめました。

(本文)


 中学生の絵梨は、いつもギリギリに学校に来る(注1)。毎朝、朝の連続テレビ小説「ひかり」を観ているからだ。高校生になった絵梨は、「ひかり」のヒロインを演じた池畑洋子が人気ナンバーワン女優(注2)として活躍しているのを観て、女優に憧れる。ゆくゆくは婿を取って家業の旅館(注3)を継がせようとする家族の反対を押し切って東京に出て女優を目指す。

 絵梨の資質にほれ込んだ芸能事務所の柴田に誘われタレント活動を始める。厳しいレッスンに耐え、朝の連ドラ「こだま」のオーディションに挑戦、そこで出会ったのがライバルになる遥だった。2人ともオーディションに落ち、その間に2人に友情が芽生え、いつしか親友となっていく。次の連ドラオーディション「やまびこ」に受かったのは遥だった。その後、絵梨はタレント活動の壁にぶつかり帰郷する。そのときに観ていたテレビには「やまびこ」のヒロインとして活躍する遥の姿があった。さらにふるさとの人たちの励ましもあり、心機一転、再び挑戦し、ようやく連ドラ「のぞみ」のオーディションを受け念願かなって合格する。(ここまでが前半)

 ドラマの収録が始まると、厳しいディレクターや先輩女優のイジメ(注4)にもめげずに頑張る絵梨。いつしか弟役を演じる文弥に恋愛感情を抱くようになる(注5)。そしてロケ先で告白し、二人は密に付き合うようになる。

 そんな絵梨に恋人〜夫役の和也が熱烈にアプローチしたり、友人役の麻利亜が文弥に想いを寄せていたりして恋のバトルがあったり、スキャンダルを恐れた事務所が2人を別れさせようとしたりと、障害を乗り越えつつ、二人の恋も進行し、ドラマは評判になり、ついにクランクアップを迎える…。

注1:朝ドラのヒロインと遅刻(とか寝坊とか)はお約束。

注2:山口智子、松嶋菜々子、竹内結子あたりがイメージ。

注3:朝ドラと老舗旅館はお約束(「ハイカラさん」はホテルだが、「純ちゃんの応援歌」「女は度胸」「オードリー」)。ちなみに山口智子の実家はリアルで老舗旅館。

注4:某女優Kあたりをイメージして下さい。

注5:朝ドラヒロインと弟は妙に絆が深いのが多い。「ちゅらさん」然り「わかば」然り。「純ちゃんの応援歌」の山口智子と唐沢寿明も朝ドラで姉弟だった。それが結婚するきっかけとなるのは周知の通り。

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2005-01-29 14:39:01

レビュー3連発

の前に、10日はHEAL新潟のZEPP東京で、インターネット同時更新の作業をしていました。自分のところはチームワームも良く、楽しく作業できた。通信環境などのいろんな好条件に恵まれたこともありフジロック本番ではここまで上手くいかないだろうなという気もするが、いろんなミュージシャンにも話を聞けたし、ライヴもよかったし。詳しくはリンク先を見て下さい。

■『少林サッカー』(DVD)

 単純に面白いっス。自分は後半のサッカーシーンより、前半のギャグ連発の方が面白かった。もちろん、『マトリックス』などのパロディの嵐で、CG使いまくりのサッカーシーンも楽しかったけど。主人公とその兄が少林拳を広げるためにコンビを組んで歌ったのが、The Mamas & The Papas"California Dreamin'"の替え歌だった。一聴しても気付きにくいんだけど、あのメロディに「少林拳は最高〜!」(もちろん中国語。吹き替版なら日本語)と歌うのに脱力した笑い、そして、一番は、主人公が太極拳使いの少女、ムイに出会って歌を歌ったところ、そこに居合わせた男が、その歌にインスパイアされて歌を歌い始めてから、集団ダンスに展開するシークエンスで男の歌い方がアッパー系の笑いを引き出す。ストーリーは語るほどのものでもないし、何も考えないで観るのに最適。

 『風の王国』と比べ、許せる荒唐無稽・ご都合主義とそうでないものの差というのは、単純に言って、そこに笑いがあるかないかでなんだろう。テレビドラマも同様だけど、細部の誤りとか矛盾とか設定の違和感を感じさせなくさせるというのも技術のひとつであると。

■『ロジャー&ミー』(DVD)

 マイケル・ムーアのデビュー作。笑えるという評もあるけど、おれには全然笑えなかった。ムーアが育ったミシガン州フリントが崩壊していく様子を撮ったドキュメンタリー映画。そして、その原因である工場閉鎖を行ったGMの会長であるロジャー・スミスに対決しようにもなかなか会えない。何の達成感もないし、レイオフされた工員たちの、ただただ悲惨な生活が描かれていく。映画の最後にようやく一言、二言ロジャー・スミスと言葉を交わせるのだが、フリントに来て失業者の現状を見て欲しいという願いは簡単に斥けられる。はっきり言って面白さや完成度なら『ボウリング・フォー・コロンバイン』>『華氏911』>『ロジャー&ミー』であるのだけど、じゃ観る価値ないかというと全然そんなことはなくて、この映画の良さは、監督初体験のムーアの新鮮さが伝わってくるし、何よりもアメリカの現状がよく分かる。この映画と『8mile』を並べて観たら、アメリカっていう国がなんて悲惨な貧富の差で成り立っているのかが身に沁みるのだ。どちらもデトロイトに近いし。それにしても、この映画に出てくる金持ちたちの、夢、努力、希望という言葉がなんと空しいものだか。

 このDVDには2003年につけられたムーア自身の音声解説がついているので、本編を観て、もう一回音声解説版で観ることをお勧めします。DVDってこれがあるから良いね。

■『煙か土か食い物』舞城王太郎(本)

 面白い!サンディエゴから福井県の田舎町、ハンソンの"キラメキ ☆ mmm bop"とトーキングヘッズの"サイコ・キラー"が交錯するスピード感と迫力あるミステリー小説。主人公の奈津川四郎の一家は、まるで中上健次の小説のような感じである。主人公の父、奈津川丸雄は浜村龍造だし、兄の二郎は郁男だろう。そういった田舎における地と血を巡る話でもあるのに、印象はポップだし、時折入る関西弁の突っ込みは吉本の笑いぽいし、何より文体に速度があるし、次々に浮かぶ疑問はサクサクと解かれていって、どんどん読み進めていける。それでいてミステリのネタが解決するときのカタルシスがないって言うか、これは解決なのか?単に一段落したというだけなのだ。決定的な解決がなくても、というか解決そのものを問うような終わり方になっている。これで話が閉じない感じがして作り方が上手いなあと思う。これを読んでいると純文学とエンターテイメントの壁なんか無いんだよーといいながら易々と越えてしまっている。主人公の兄、三郎が純文学を目指していたけど、ミステリに転向したという箇所があるので、そういう壁は意識しているのだろうけど、そういうのを無視して進んでいく勢いは感じさせる。

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2005-01-12 08:44:18

これをある意味SF小説とか言ったらSFファンに怒られるだろうか

■『風の王国』五木寛之

 五木寛之には興味ないし、何故これを読んだかといえば、サンカが取り上げられているからだ。先にレビューを書いた沖浦氏も五木寛之と共著を残しているので、やっぱり読んでおかないといけないと思ったのだ。しかしなぁ、この小説、

●冒頭、大阪・堺にある仁徳天皇陵の前で、サンカの皆さん50人くらいが「アウー、アウー、アウー」・・・ってこんなの見つかったら怪しまれるだろ。それとも仁徳さんの前では普通のことなのか!?

●セクハラにも鷹揚に対処する女性編集長。今の時代じゃ書けないだろうなぁ。胸触られても平然としてるんだもの。

●つーか、この小説に出てくる女はみんな、「〜だったわ」「〜ですわ」って、大企業の役員夫人でもあるまいし、そんなふうにしゃべるもんなのかね。

●主人公がサンカの団体に近づいていく経緯が安易過ぎ。しかも、主人公は実はその団体の始祖の子孫だったというオチ。「あの葛城天浪さんの・・・」って貴種流離譚ですか。そうですか。主人公が実は偉い人の血を引いてたって、漫画化するなら車田正美にでも描いて貰って下さい。

●そのサンカの団体は政界財界マスコミ芸能界やくざ界に強い影響をもたらす・・・

●中華料理店のオッサンが実は重要な使命を帯びた工作員だった、ってゴレンジャーの基地が喫茶店にカモフラージュされているみたいなもんですか。

●ヒロインのおっぱいは左右で大きさが違う。これは二上山(この小説の重要な舞台)を表しているのだが、あまりにも安易ではなかろうか。

●つーか、最後がよく分からない。大して解決してないし。大風呂敷を広げた割には自分の身を自然と融合させた気になっておしまいという。

 まあ、SFと割り切って読めば、面白いし、こういう秘密結社的な団体の実在を100%否定するつもりはないんだが、話は安易ではなかろうか。麻木サエラをはじめ登場人物の人物像は、そこそこ魅力的だったりするけど、真面目に読んだらがっくりくる。そして、サンカはこういう団体と信じてしまうという悪影響を後世に与えたんじゃないだろうか。

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2005-01-04 23:37:42

初の訪問者ゼロ

明けましておめでとうございます。

 1月1日は見事に訪問者がゼロでした。ここのblogは大体1日に20〜40の訪問数があるのだけど、全くゼロというのは初めてでした。そんな自分は30日まで仕事、終わってそのまま渋谷屋根裏でザ・キャプテンズや他の対バンを観て、新宿に移動して、Blanquilizerへ。今回はお客さんとして行く。それが朝までで、打ち上げにも出て、帰宅してすぐ寝る。
 
 31日は紅白歌合戦を途中まで観る。応援合戦っていうか、演出は寒いのばっかりだなぁ。良かったのはダントツに氣志團。本番は小ネタの嵐だったり、他の人のステージにも積極的に出て盛り上げに貢献していた。氣志團が出なければ相当つまんないものになっていたでしょう。あとは、自分は夏川りみの声が実は好きなんだということを確認。大塚愛のバックのドラムが元ブルーハーツの梶原さんでしたね。ずっと彼女のバックでドラムを叩いていることは知っているけど、紅白にまで出るとは。

 観たかったが、マツケンの前に家を出て、渋谷のアイリシュパブのHUBにてブリティッシュパビリオンのカウントダウンへ。この日はorgの後輩も回すんで行ったのだけど、混雑しているうえに、あまり知り合いのいない状況が辛くて、年を越したところで退出。ちなみに、マケボノの腕が曲げられたのは、この店の大スクリーンで観ました。

 店を出てそばでも食おうと駅のあたりをぶらつくも、なかなか店は見つからず。普段は24時間営業の富士そばでも閉まっていた。こういうときにやったらお客さん入るんじゃないかと思うのだが。仕方なく、吉野家へ。それからDeseoで2日連続でキャプテンズとミルクティースと対バンのバンド。どちらのバンドもこの日は3会場を掛け持ちして、どちらも最後の出演であった。キャプテンズもいつものお約束をきっちりやりつつ、かなり弾けたステージ。ミルクティースはロックンロール攻めで、正直言って、この前のワンマンライヴより、こちらの方が好きだったりして。

 それにしても、このごろよくライヴハウスに行くと思うのだが、ルックスも今の若手お笑い芸人(はねるのトびらに出るような)並にそこそこ良いし、演奏もそこそこ、曲もそこそこなんだけど、なんかイヤ〜なものを感じるバンドが多い。くるりとかスーパーカーとかバンプオブチキンあたりに似ていて、歌詞が甘すぎる。その音のセンスはいいのに、そんな使い古されたラヴソングでいいの?とか空虚に希望とか歌って腹が立つというか。キャプテンズにしろ、ミルクティースにしろ、確かに単純なラヴソングが多かったりするんだけど、バンドとして突き抜けたものがあるからトータルで評価できるんだけど、くるりスーパーカーバンプの真似でその何の批評性もない歌詞はないだろと感じるバンドが多くてげんなりするのだ。こういうバンド観るなら、おれの周りでは評価する人が皆無なんだが、妖怪人生ゲビルとか観た方が何倍マシだと思う。

 終夜運転のおかげで始発を待たずに家に帰り、てるてる家族の総集編を見て寝る。1月1日は、夜『時計仕掛けのオレンジ』と『8mile』のDVDを借りてきて観る。『時計仕掛け〜』はやっぱり観ておくべき映画でしょう。71年製作というと、自分が生まれた頃の作品なんだが、全然古さを感じさせないし、その問いかけは今の方がリアルに感じるという奇跡のような映画である。それから「ヘブン17」の由来はここから来ているのか。ちなみに「コロバミルクバー」というレッドホットチリペッパーズにそっくりな日本のバンドもいる。音楽の使い方もいいなぁ。ベートーベンは言わずもがな。「ウイリアム・テル序曲」(おれたちひょうきん族のオープニングでも有名)の使い方なんかも最高だし、ロッシーニの「泥棒かささぎ」も凄い使い方されているし。

 一方、エミネムの半自伝的映画である『8mile』も良かった。一回字幕版で観て、もう一回は吹き替えで観たのだけど、バトルシーンはやっぱり字幕(フューチャーのMCまで)だった。一瞬「スウィートホーム・アラバマ」が出てきたり、「おれがアイクでおまえがティナ」には笑ったし、ビースティーボーイズがコケにされているのはちょっとカチンと来たけど、この辺は黒人の偽らざる心境なんだろうな。エミネムの相手役のブリタニー・マーフィは可愛いし、いい感じでビッチなのがむしろ萌え。一番印象に残ったのは次のセリフ。エミネムが演じるラビットが友人にこう言うのだ。



ラビット:ソル、いつ夢に諦めをつければいい?高望みを捨て、地に足をつけるのは、いつだ?

ソル:まだ朝の7時半だぜ



 つまり、まだ始まったばかりだせ、ということを、説教臭くなく、さりげなく示している印象的なシーンであり、これが後半につながっていくのである。ラビットの問いに「まだ諦めるなよ」とか「おまえは成功するよ」じゃ白けるだろう。この映画から受け取るものは大きい。

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2005-01-03 01:35:02

江戸末期の引きこもり、もしくはニート、あるいはホームレス

■『幻の漂泊民・サンカ』by沖浦和光

 日本には1950年代あたりまでサンカと呼ばれる人たちがいた。戸籍も持たずに山で暮らして、竹細工や川魚漁を生業として、普通の定住民とあまり接触しなかったとされる。明治時代には教育、納税、兵役の義務を果たさず警察の取締りの対象になったのであるけど、一方で、山の中で生きるために運動能力に優れたと言われたりとか、何者にも縛られない自由な生き方が憧れられていたりする。

 自分も大学の頃に興味があって図書館から八切止夫とかサンカ関係の本をいくつか借りて読んだりしたけど、どれもこれもいまいちだった。それだけ謎に包まれているということもあるし、だからそこ想像力(妄想!?)たくましく「田中角栄はシノガラ(市民社会に入っていったサンカたちの秘密結社的組織)だった」などという話が語られていたのである。ネット関係を見てみてもサンカにまとわりつくロマンに肩入れする者が多く、サンカを忍者と結びつけたり、「誰々がサンカ」(その誰々には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など歴史上成功を収めた大抵の人が含まれているといってもよい)と言ってみたり、古史古伝を信じてたりするバカモノだったりして信頼性に欠ける。

 サンカは起源も日常の生活も消滅の経緯もはっきりとわかっていない。民俗学の巨人、柳田國男ですら挑戦したが挫折してしまったくらいなんだから。この本は、タイトルからして『幻の漂泊民・サンカ』であって、ちょっと疑いつつ手にとってみたけど、これがなかなかの本であった。本書ではサンカを古代や中世からの起源とする説を斥け、近世末期の発生としたり、三角寛の功罪(罪の方が明らかに強いが)に言及したりとかなり目からウロコである。 

 その近世末期(江戸時代後期)に発生したという説は、サンカは天明の大飢饉の頃(18世紀末)、生活が困窮した農民が家を捨てて山へ逃げた人々ということなのだ。だから、サンカの記録は1855年の広島藩の文書よりも前のものはないので、近世以前にさかのぼることが出来ないし、中世の遊芸民や古代から日本に在住していたと言われる原日本人(縄文人とする説も)とのつながり示すものがないのだ。

 これは、今までのサンカ像を一新するような説であろう。ただ、この説はサンカにロマンティックな思い入れを抱く人には評判悪いらしく、沖浦説を「検討違いな見解」と断ずるサイトもあったりする。そういう人たちにとってサンカは大陸から征服(征服した勢力の末裔が現在の皇室)される以前の原日本人がそのまま残って欲しいという願望、つまり幼稚な国粋主義を投影したり、歴史の謎を一挙に解明したいという欲望――要するに陰謀史観――フリーメーソンがどうしたとか、ユダヤの議定書がどうたらというのと同じ類であるのだ。もちろん、歴史にはまだ明らかなになってない部分はいくらでもあるだろうけど。

 本書を読んでいくと、飢えや貧しさからの生活を捨てて山へ逃げ、納税、徴兵、教育の義務を果たさない人たちっていえば、別に江戸時代だけの話ではなく、それこそホームレスやニートや引きこもりに通じる話ではないかと思えてくる。社会の箍(たが)が外れて今までの制度が立ち行かなくなるときに共通の現象なんだということもいえる。もちろん、サンカの人たちは生きるのに必死であって、引きこもりやニートとは違うといわれるかも知れないけど、実際のサンカは、どうやら五木寛之の『風の王国』に出てくるサンカのような高邁な精神を持った人でもなさそうだし、大きな組織もないようだし、超人的な身体能力を持っているわけでもなく、意外と近いものなのかも知れない。

 ここで描かれるサンカは、善良で慎ましく竹細工や川魚漁で生活し、定住民には賤民視されるのを耐え、半定住して毎年決まったところを回遊して、大きな組織を持たず、市民社会の一員になろうとする人々である。「何ものにも縛られない自由な生き方をしている」のでもなく、「強い組織でお互い助け合って」のでもなく、ましてや犯罪集団でもない。なーんだ、って思う人もいるかも知れない。でも、実際そんなところなんだろう。もちろん、沖浦説にもいくつかの穴があって、本書で取り上げられているのが狭義のサンカでないのか、という疑念が拭えないことで、要するに、これは中国山地を中心とした一部のサンカの話ではないのかということである。マタギ、木地屋、タタラ者、傀儡(くぐつ)などサンカに近接する山の漂白民を本書では分けて考えているけど、定義に固執しているのでは?もっとこの辺は流動的じゃないだろうか。それから古代・中世とのつながりも「記録がない」だけでは説明が今一つのような気もする。本書の言う通り、サンカの大半が近代末期に発生したのだろうけど、サンカにロマンを抱く人を説得するまでにはいかない。さらなる史料の掘り起こしを待つしかないが、やはりこの辺は謎なんだろう。そこに妄想が付け入る隙があるのは否定できない。同様に明治以降の市民社会にシノガラという組織を持ったかどうかも完全には否定できない。『風の王国』のような、政界・財界・マスコミに強い影響を与えるものは大げさにしても、それなりの互助会的なものはあったかも知れない。それからサンカが犯罪集団というのは完全な誤りにしても、中には匿名性を生かして犯罪に及ぶ者がいてもおかしくない。「帝国陸軍は軍規が厳しかったので、残虐行為はなかった」というのと同じである。

 そのような穴はある。しかし、サンカという民俗は消えつつあっても、それは過去の話ではなく、歴史の転換点に古い制度が崩れつつあるときに生まれた人々の話として興味深く読める。引きこもりやニートやホームレスたちがどのようになるのかを暗示しているかも知れない。要するに手に職をつけて賤民視に耐え、必死に生きろと。あ、他人事じゃないや。

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2004-12-29 12:41:45

 
 

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